ミハ・ウルマン(イスラエル)

山口牧生(日本)

アンドレアス・カール・シュルツェ(ドイツ)

中沢新一テキスト

■はじめに

福井県立鯖江高等学校は普通科、衛生看護科、定時制からなり、生徒数約900名を数える「ふつうの学校」です。その「ふつうの学校」に今、他に例を見ないユニークで壮大なアート・プロジェクトが1998年6月末に完成しました。

はじまりは95年、同窓会から贈られて中庭に設置された林武史の《きざむこと》と題された石の彫刻でした。その後、特色ある学校づくりへの取り組みのなかで、この彫刻のある中庭に面した学生ホールをギャラリーに改装して作品を展示するという計画が生まれました。「国際化時代を生き抜くことができる人材を育成するためには、若いうちに一流の文化に触れ、いいものはいい″と素直に感じられる豊かな感性を育てることが必要」新しい学校教育のスローガンを掲げた佐々木英治前校長と学校関係者の熱意そして生徒の関心の高まりとともにギャラリー(王山ギャラリー)が完成したのは96年12月のことでした。壁面下部は学生の作品を発表する場、壁面上部は同時代の美術家の作品を常設展示する場として、「学校での日常生活のなかであたりまえに芸術がある。」というコンセプトは実現したのです。

福井新聞<論説>
1998年11月23日に鯖江高校のプロジェクトに関する記事が掲載されました。

■福井県立鯖江高等学校 現代美術設置プロジェクト'98について

さらに大きな構想となった今回のプロジェクトは、前校長の意思を継ぎ三上悠紀夫現校長のもとで来年創立85周年を迎える鯖江高校の記念事業の一環として進められました。
これは、王山ギャラリーをさらに発展させたものであり、国内外の優れた美術作家による作品を校内の各所に恒久的に設置するという画期的な試みです。学校の敷地全体をキャンバスに−。より自然なかたちで芸術と接することのできる環境をつくることは、学生が自らの感受性を掘り起こす作業に大きな関わりをもちます。日常を過ごす空間に、豊かな発想を生む芸術表現があふれている。−新しいものの見方、考え方、とらえ方の能力を開く個性ある教育のあり方を、ゆっくり確かな足取りで示してくれるプロジェクトになりました。
また、今回設置された作品は、王山ギャラリー同様に一般にも開放することで、地域社会との交流を深めていきます。そして、教育にとどまらず、新しい現代美術のあり方を提示し、新しいかたちで芸術を体験できる貴重な場をつくっていけるものと確信しています。


■福井県立鯖江高等学校 現代美術設置プロジェクト'98 概要

参加作家:山口牧生(日本)

     
アンドレアス・カール・シュルツェ(ドイツ)
     
ミハ・ウルマン(イスラエル)
作品を見るには各作家名をクリックして下さい。


■ その他の関連企画
作品及びドキュメント写真展示(鯖江CCi美術館) 共催:イスラエル大使館、関西ドイツ文化センター
1998年11月7日(土)より11月23日まで(各作家の作品制作から設置に至る過 程を写真展示して公開)
各作家の美術作品や表現に対する理解を深める機会をつくりました。

アンドレアス・カール・シュルツェの展覧会 
会場:関西ドイツ文化センター、大阪
住宅建築2000年7月号の掲載記事
プロジェクトホーム
校庭に舞う金の鳥
 中沢 新一 

  「現代美術」は、アートの歴史に発生した、例外的な現象なのである。十九世紀の後半の西欧で、おりしも出現した「モダン」という名前の新種のウィルスに、アートの伝統的な身体が感染した。その結果、ウィルスは遺伝子組み替えをおこなって、アートの体質に決定的な変化をつくりだした。アートはそれまで、観念と表現技術が複雑に結合した、厚みのある伝統の体系を、営々と築き上げてきたのだけれども、「モダン」の侵入が、一挙にその体質を変えてしまい、そこからさまざまな例外的な新種が生まれてきた。美術史の流れの連続の中に「現代美術」を位置づけようとしても、あまりうまくはいかないだろう。それよりも、まず「現代美術」という現象の発生のもとになった、「モダン」というウィルスの本質を理解することのほうが、大切だ。「モダン」の本質を象徴するものは、核とHIVだ。どちらも物質や生命の同一性を破壊しようとするものだからだ。核は、物質の具体的な外殻を壊して、その中から抽象的なエネルギーを取り出そうとする。HIVウィルスは、生物のおこなう免疫機構の働きを解除して、生命の現象を裸のまま、この世界にむきだしにしてしまおうとしている。具体的なものでできた世界は、自分の秩序を維持するために、たいへんなエネルギーや複雑な免疫的なシステムをつくりあげてきた。核もHIVも、それを壊して、物質や生命体の中から抽象化されたエネルギーや、むきだしの現実などを、世界の表にひっぱりだそうとしている。そのことが、まっすぐに「モダン」の本質につながっているのだ。「モダン」は物質の具体的なあらわれの奥に手をつっこむようにして、その奥から物質の本質を、抽象的な「魂(Sprit )」のようなものとして、取り出そうとしてきたのである。こういう精神の誕生を準備したのは、十八世紀からのロマン主義をも踏み超えて、豊かな具体の世界を解体してでも、その奥にかくされ隠されているはずの「真理」を、世界の表面に一挙に顕在化させようとする衝動に、さまざまな表現をあたえてみたいと考えたのだった。そのとき、具体の世界の学であったサイエンスが「現代科学」に、具体の世界の表現の技であったアートが「現代美術」へと、それぞれの変貌をとげたのだ。相対性理論も量子論も、具体的に目に見える世界の常識が、そのまま物質の世界の真理をあらわしてはいない、と宣言した。セザンヌや印象派の画家たちも、もう山や蓮や水面を、以前からの風景画家のように写実的には描かない。キャンバスに描かれたサン・ヴィクトワール山は、山の景色ではなく、画家の目の前の具体的な山の姿をしたものの奥から立ち上がってくる、なにものか抽象的な生命の運動へと、本質を変えてしまっている。「モダン」は具体的な世界の奥に隠されてあるものを顕在化させようとする、大規模な精神の運動として、十九世紀の末に西欧にあらわれ、たちまちにしてサイエンスとアートに革命をもたらすのに成功したのだ。しかし、ここで道は大きく二つに分かれたのである。「モダン」はさまざまなところで伝統を破壊してきた。大地に所属しているものをそこからひきはがし、複雑でデリケ−トなものとして物事をつくりあげてきた秩序を、多くの領域で壊してしまった。そういう犠牲を払ったあげくに、世界の表面にあらわされた物質や生命の抽象的な本質だけを素材にして、「モダン」は新しい世界を、この地球上につくりだそうとしてきたが、そのときはっきりと、進むべき道が二つに分かれたのである。
 支配的な大きな街道と、その街道をそれて草原や森の中に分けて入っていくかぼそい小道の、二つの道が、このとき生まれたのだ。一方の大きな街道リードするのは、「技術的思考」と呼ばれるものである。技術の思考は、自然と生命に信頼を抱いていない。もともとそれは、自分にとっては操作や観察の対象にほかならないものだったし、物事の具体性の奥から取り出された抽象的なエネルギーや生命の内部に、自発的な原理にもとづいてみずからの秩序をつくりだしていけるような、なにかの「理性」ないし「超理性」が働いているなどとは、考えることもできない。そうなると、新しい「モダン」世界は、人間や自然に対して、外から合理主義的な秩序をあたえることによって、つくりださなければならないことになる。ここから、「モダン」な社会に特有な、合理的な教育と軍隊のシステムや、人々の感情や思考に外側からの強力な方向づけをおこなうためのメディアや、この安心できる街道をはずれたら、人間としてのまともな暮らしなどはできないのだ、とたえず脅し続ける産業社会のエートスなどが異常なくらいの発達をとげてきた。技術化された「モダン」は、こうしていたるところに地雷のような不信をセットするのだ。自然は制御されなければならない。生まれたばかりの生命は、外側から矯正し、教育していかなければ、まともな大人には育たない。こういう「迷信」を人々に植えつけながら、この「モダン」は地球上でいまや巨大な怪物にまで、成長をとげようとしている。しかし、そのような街道からそれて、かぼそい小道が走っていることを忘れてはならない。その小道は同じ「モダン」から生まれながら、生命と存在への信頼によって、技術的思考のつくりだす「モダン」とは、決定的に異なる道を開いてきた。そして、あの大きな街道を支配しているのが技術の思考であるとするならば、この小道の主催者こそは、「現代美術」を生みだしてきたあの精神にほかならない。その精神は具体性の世界の外殻を破って、表面にむきだしに露出された、抽象的で「モダン」な生命には、いままで見たこともないような、新しい形、新しい色彩の秩序を、自分の内部から自発的に生産することができる、という生命への深い信頼感がみなぎっている。「現代美術」を推進してきたその精神にしたがうならば、生命は底なしに深いものにつながりをもっていて、その深みからはたえまなくこの世界に形態や波動(それがいずれは色彩に姿を変える)を送り出してくる力が、放射されている。その放射する力が、人間の 生命に接触をおこす瞬間に、美の現象がおこる。クレーやマチスの天才がとらえようとしたのは、その瞬間の出来事だ。技術やサイエンスは、その瞬間に立ち上がってくる抽象的ななにものかを、即座に数値に還元主義に抗して、その瞬間の出来事の意味を、まるごととらえようとする。具体の世界を破って立ちあらわれてきたこのものは、自分の内部に、生産する力と形を生み出すゲシュタルトの原理を宿している。そのことを、全霊をこめて信頼し、進んでその中に自分を投げ込んでゆく−そういう精神が、「現代美術」を生み出し、いつかき消されてもおかしくないほどに細かいこの小道を、これまで守り抜いてきた。それは「モダン」の精神のもっともふくよかな潜在力を表現してこようとしたのである。その「現代美術」の精神を、荒廃した今日の教育の現場に大胆に持ち込もうとする人々が、ここにいる。この人々は教育の再生というさしせまった課題に、遠くて深いところから物事の本質を見抜くやり方で、立ち向かおうとしているようだ。今日私たちが直面しているのは、技術化した「モダン」が、人間に最終的にはなにをもたらすことになるのか、という人類が共通に抱えている不安にみちた問いに、先に先駆けて与えられた、ひとつの明確で悲惨な解答にほかならない。技術化した「モダン」は、人間の内面的な生命(ピュシス)ヘの不信感を組織化するために、さまざまな社会機構をつくりだしてきたけれど、教育がそのために果たしてきた役割は大きかった。その教育がゆきつくさきの姿を、私たちはいま、絶望的な気持ちで、みつめているが、「現代美術」をその現場に持ち込もうとしているこの人たちは、勇気をもってその先へ、踏みだしていこうとしている。
 私は想像する。「現代美術」の精神から産み落とされた、さまざまな姿をした金の鳥たちが校庭に舞う、気の遠くなるように美しいその光景を。金の鳥は、荒廃の極致、不毛の灰の中から飛び立って、自由の翼をもって、悠々と大空を滑降していくだろう。すでに荒廃の先は見えた。私たちも、この人々にならって、つぎつぎと「校庭」に金の鳥を放つ努力をはじめようではないか。

福井県立鯖江高等学校創立85周年・新生高校発足50周年記念図録より転載